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2015年5月25日 (月)

エッセー 成長としての老い 菅靖彦

 

 いつのまにか七0歳にあと数年という年になっていた。
 私はいわゆる団塊の世代である。戦後すぐ、物のない時代に岩手の花巻に生まれて育ち、高校を卒業してから、二十年以上を高度経済成長期の東京で暮らし、バブル崩壊寸前に伊豆に土地を買って移り住み、現在にいたっている。
 自分が高齢者だという自覚はほとんどないが、最近前歯が抜けて、間の抜けた顔を見ていると、いやがおうでも「老い」というものを意識せざるをえない。
 わたしが暮らしている伊豆高原は、退職した人が老後の生活をするのに好まれる土地柄だということもあって、わたしの周囲には、老人たちがたくさんいる。しかし、一口に老人と言っても、趣味をもち生き生きと暮らしている人たちもいれば、身体がきかなくなったときのことが心配で、子どもたちへの配慮から、老人施設を捜し歩いている人たちもいる。
 子どもたちに迷惑をかけたくないという老人の気持はよくわかる。わたしも子どもの世話にはできるだけなりたくないと思っている。しかし、子どもを一人前に育て、社会にも貢献してきた老人が、人様に迷惑をかけないようにと、遠慮しながら生きている姿は、どうしてもまともだとは思えない。
 わたしは、老人たちに、もっと自信をもって生きていってもらいたい。わたし自身も自信をもって老後を生きたい。現代は、若さばかりが過度に尊重されるきらいがあるが、老後の人生にも、それなりの意味があるはずだ。そうでなかったら、わたしたちの人生はとてもみじめなものになってしまうだろう。
 数年前、東京で開かれた高校時代の同窓会にはじめて出席した折、老いは年齢ではない、と強く感じた。同窓会だから、当然、同年配の者たちが集まっているわけだが、とてもそう見えないのである。ものすごく老けた感じの人もいれば、まだはつらつとしたさを保っている人もいる。その違いを生み出しているのは、生きる姿勢ではないかと思う。
 青春という言葉があるが、青春は若者だけが享受できる特権ではない。老人になっても青春を生きている人たちがたくさんいる。わたしも死ぬまで青春でいたい。わたしの青春の定義はきわめてシンプルである。夢や希望をもちつづけ、常に好奇心とチャレンジ精神を失わないこと。身体が多少、きかなくなっても、そうした精神だけは持ちつづけられるはずである。
 しかし、最後には、誰でも、この世への執着を手放さなければならないときがくる。そのときのために、自分という個的な存在を、大宇宙の営みの一部として捉えるスピリチュアルな世界観を養っていきたいとわたしは思っている。
 わたしたちは社会的なアイデンティティを築くことばかりにかまけ、自分が社会性を超えた宇宙的な存在であるという自覚をどこかに置き忘れてしまっているのではないだろうか。そうした自覚を取り戻さないかぎり、どんなに若さを維持しようとしても、というより、肉体の若さを保とうとすればするほど、老いは若さの喪失としか思えず、苦しみの源になっていくだろう。
 スピリチュアルな成長として老いを捉える視点が今、必要になってきている。
 
 

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