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2015年6月14日 (日)

書評②:俳句に生きるアニミズム


「カミを詠んだ一茶の俳句」(山尾三省著、地湧社)

近代の合理主義的な社会は、理性による自由と
平等の実現を目標にかかげ、古い因習や宗教から
の脱却を推し進めてきた。日本も、戦後の民主主
義の普及により、近代社会の仲間入りを果たし、
めざましい経済の発展を通して、世界有数の経済
大国にのしあがった。
 しかし、経済的な発展とは裏腹に、多くの人が
心のよりどころを失い、殺伐とした社会の中で、
孤独にあえいでいるのも事実だ。その原因の一端
を広い意味での宗教心の喪失としてとらえ、これ
からの時代の宗教心のあり方を探ろうというのが
著者の狙いである。
 著者の山尾氏は経済至上主義に現代人のニヒリ
ズムの原因を見ているが、個人主義を一概に否定
しようとしているのではない。
 古い因習や宗教性から脱して自由になった個人
を尊重し、一人ひとりの個性や多様性を生かしな
がら、万物に宿るカミ(従来の神と区別するために著
者はあえてカタカナ表記を使っている)と対話する、ア
ニミズム的な宗教心こそ、これからの時代に必須
(ひっす)なものだと説いているのだ。
 そして、そのようなアニミズム的な宗教を生涯
かけて実践した先達として、俳人の小林一茶に着
目し、独特の観点から、一茶の生き方や俳句に迫っ
ている。
 最近、多数の犠牲者を出した聖地エルサレムを
めぐるイスラエルとパレスチナの長年の対立から
も分かるように、宗教は人々の結束を固める基盤
になる力をもっている半面、他者を排除するとい
う矛盾した側面ももっている。
 宗教の原型ともいうべきアニミズムに、普遍的な
宗教の可能性を探ろうとする山尾氏の観点は、集
団主義的な宗教に内在する矛盾を乗り越える一つ
の方策としても、注目に値すると言っていいだろう。
 本書が単なる文献学にはない透明な「清涼感」
をもっているとすれば、著者の山尾氏自身が、圧
倒的な屋久島の自然の中で暮らすアニミズムの体
現者であるというところからきているのだろう。

2015年6月10日 (水)

6月の例会のお知らせ

solaの会6月例会は以下のように行います。

ルノアール四谷店
3階A

日時;2015年6月19日(金)

19:00〜21:00 solaの会

参加費 1000円+飲み物代

連絡先

yasuhikosuga@yahoo.co.jp

相田みつおとニューエージ

 あるがままの自分
わたしたちは比較の世界に住み、暗黙の競争心に煽られて生きているが、相田みつおの作品を読んでいると、そうした比較の世界を離れ、「あるがままの自分」を生きようとする姿勢が窺える。たとえば、「点数」という詩にはそれがストレートに表現されている。

 にんげんはねぇ
 人から点数を
 つけられるために
 この世に生まれて
 きたのではないんだよ
 にんげんがさき
 点数は後

「トマトとメロン」というとても分かりやすい詩には、こんなふうに書いてある。

 トマトもね メロンもね
 当事者同士は
 比べも競走もしてねんだな
 トマトはトマトのいのちを
 精一杯生きているだけ
 メロンはメロンのいのちを
 いのちいっぱいに
 生きているだけ

 結局、トマトはトマトなのに、人間社会の基準に照らしてより高級なメロンになるよう強要されるところに、現代人の苦悩の源があると、相田みつおはこの詩の最後で匂わせている。
「あるがまま」を肯定しようとするこうした彼の姿勢は、仏教的な世界観の根底にあるもので、彼に特有のものではない。にもかかわらず、彼がこれほどまでに広い読者層に支持されているのは、個性的な書と組み合わせたその独特な表現スタイルが、人々の心に訴える力をもっているからだろう。と同時に、一九七〇年代の後半から、豊かになった先進社会を中心に急激な広がりを見せているニューエージ・ムーブメントと総称される新しい文化的な潮流が、彼の人気の高まりと、どこかでシンクロしあっていることはほぼ間違いなさそうである。ここでは、相田みつおの作品とニューエージ的な価値観との接点を探ってみたい。

 ニューエージ・ムーブメントの台頭
 ニューエージの源流は一九六〇年代末のカウンター・カルチャーとヒッピー・ムーブメントにあると言われている。この時期、公害や大気汚染といった形で経済至上主義の弊害が露呈したのをきっかけに、教育や芸術やライフスタイルなどさまざまな分野で既成の価値観を見直そうとする動きが活発化し、社会からドロップ・アウトする人間を多数輩出したのである。世界中で学生運動の嵐が吹き荒れたのもこの時期だった。
 七〇年代に入ると、世界的な経済不況に見舞われたこともあって、こうした動きは一時、鎮静化したように見えたが、実際には、心の充実を求める自己実現の欲求や内面世界の探求という形をとって、人々の間に浸透し、ニューエージと呼ばれる大きな文化潮流に発展していった。この潮流には、東洋思想や西洋の神秘主義、オカルトや占い、古代文化、ネイティブ文化への関心から、さまざまな新興宗教の流行、ニューサイエンスやホリスティック医学の台頭、エコロジーやフェニミズムの運動といったものにいたるまで実にさまざまな要素が含まれている。日本でも、演劇、美術、音楽、舞踏の前衛運動を経て七〇年代の後半からこうした潮流が顕在化し、精神世界ブームという言い方でよく呼ばれた。そして、イルカ、天使、臨死体験、UFO、種々のセラピー、自己啓発、癒しといったものへの関心を次々に生み出しながら、現在にいたっているが、他方で、オウム真理教の事件のような負の遺産も生み出してきたことを忘れてはならない。
 
 本来の自己
 内面性を重視するニューエージの流れを、自己愛的なミーイズムだとして批判する一連の人たちがいる。たしかに、ニューエージの集まりやさまざまな癒しに群がる人たちを見ていると、批判精神を失ってしまったまったく角のない妙にやさしい人たちや、霊的な世界をただ無批判に受け入れ、騙されたりしている人を多くみかけるので、そうした批判もあながち的はずれではない側面をもっている。そういった人たちの一部が、カルトや暴利をむさぼる自己啓発セミナーを生み出す温床になっているとも言えるだろう。
 しかし、ニューエージの流れをミーイズムとして一蹴してしまうのはあまりに偏った見方である。というのも、批判精神をもった「個」というものをしっかり保ちながら、体験的なセラピーや宗教的な実践を通して、あるいは内面世界の豊穣なイメージとの交流を通して、個人主義の行き過ぎによって分断されてしまった「個」の全体性を取り戻そうとしている人たちがたくさんいるからだ。そのような人たちにとって、ニューエージの流れは、個人主義の時代における、広義の意味での宗教心の模索という意味合いをもっている。そして、それと同質の精神を、相田みつおの作品にも見て取ることができるのだ。「本来の自己」という短い散文の中で彼はこのように語っている。

 いま仮りに、私が一万円を出して銀行に講座を作るとします。窓口では、係の女の子が淡々と事務処理をするでしょう。ところが同じ私が、一億円出して同じことをしたとすると、こんどは支店長が飛び出してきて、私は大変な扱いを受けると思います。
 これは極端な譬えですが、一万円持とうが、一億円持とうが、本来の自己(私という人間の本質)は少しも変らないんです。変るのは銀行の扱い。つまり、自分の外側です。変る外側に眼を向けているかぎり、本当のいのちの安らぎはありません。本当の安らぎを得るためには、眼を自分の外側ではなく、内側に向けることです。そして、自分が自分になることです。

 変化する自分の外側に惑わされない内側にこそ、本来の自己があるという考えは、仏教の「無我の思想」に通じるものだが、ニューエージの世界では、そうした外側の自己から内側の自己への焦点の切り替えを、「全体性の回復」という言葉で表現し、自我の肥大化に悩まされている現代人の精神的な疎外を克服するための必須条件とみなしている。つまり、相田みつおはアーティストとしての自分をきわめていく過程で、ニューエージの人たちと同質の問題意識に取り組んでいるということである。これは、時代が同じなのだから、当然といえば当然のことだろう。

 
「いのちの根」という発想
 もう一つ、私が相田みつおの作品に触れて、ニューエージの人たちが書いたものと同質の雰囲気を感じるとすれば、それは人間の弱さや欠点に対するまなざしがやさしいという点だろう。たとえば、それは、「欠点まるがかえで信じる」とか「つまづいたり、ころんだりするほうが自然なんだな、人間だもの」といった表現に端的に現れている。
 こうした彼のやさしさは、冒頭で述べたような「あるがままの自分」を肯定しようとする姿勢から自然に生まれたものだろうが、さまざまな葛藤の中で自分と終始戦っている現代人にとっては、ほっと心を和ませてくれる癒しの要素をもっている。そのへんにも彼が広範な読者に訴える力をもっている要因を求めることができるかもしれない。
 ただ、先にも述べたように、安易に癒しを求めるニューエージ的なやさしさは、健全な自我の発育を阻む自己愛的な傾向として批判の的にもなっている。今の日本人に必要なのは、やさしさではなく、自分の境界をもち、他人にノーと言えるような自我の強さをもつことだと指摘する声もある。前にも書いたように、そのような批判や指摘はそれなりの妥当性をもっていることはたしかだ。とくに私は、ニューエージャーたちが説く進化論が、「アセンション」という上昇のイメージで彩られていることに危惧を覚える。というのも、もし人間がその可能性の枝を伸ばしたければ、しっかりと大地に根をはるということがまず必要だと思うからである。
 上昇するために下降する・・・こうしたパラドックスを生きることこそ動物と天使の間に張られた綱を渡る人間にふさわしいものだということを、トマス・ムーアやジェームス・ヒルマンといった元型心理学の心理学者たちは魂というキーワードを使って展開しているが、相田みつおは、「上に伸びることばかりに気を取られ、土中に深く根を張ること」を忘れていたことに気づいたとき、思い切って枝葉を落とす決心をした。

それは
 根の弱い 幹の細い 力のない者が
 なんとか自分を守りながら
 生きてゆくための
 消極的な、しかもそれなりに
 勇気のいる生活の知恵でした

 こうした人生のパラドックスへの洞察が、逆境を肯定的に捉える骨太の「いのちの根」の発想につながっているところに、私は相田みつおの重心の低さを感じる。

 なみだをこらえて
 かなしみにたえるとき
 ぐちをいわずに
 くるしみにたえるとき
 いいわけをしないで
 だまって批判に
 たえるとき
 いかりをおさえて
 じっと屈辱にたえるとき

 あなたの眼のいろが
 ふかくなり
 いのちの根が
 ふかくなる

 夢はでっかく根はふかく
 現代は裕福になっただけ自分というものがなかなか掴みにくい時代である。どうしてもさまざまな「衣装」を着せられ、素の自分というものが覆い隠されてしまいやすいからだ。そうした時代に、自分というものを究めようとすれば、誰しも同じような問題意識につきあたらざるをえないだろう。だから、相田みつおという一人のアーティストが、自分の世界を構築していく過程で、ニューエージで提示されている問題意識と同じような問題に直面したとしても、少しも不思議はない。
 ニューエージの台頭も相田みつおというアーティストの人気も、全体性への渇望が人々を衝き動かすモチベーションとなっている時代の無意識が引き起こしている現象なのだろう。相田みつおの土の匂いを感じさせる重心の低さは、ともすれば「退行」へとすべりこんでいきやすいそうした時代の流れの危うさを、逆説的に意識させてくれる。
「夢はでっかく、根はふかく」ありたい。

2015年6月 3日 (水)

書評①:強烈な自由への希求と不安


「自由へのスパイラル・ダンス」(洪信子著、兪澄子訳、フィルムアート社)

 「自分探し」という言葉がもてはやされるよう
になって久しい。しかし、人が宿命的にまとわされ
る幾重ものエゴの層を一枚一枚はぎとっていき、
自分の「本質」と呼べるようなものを体得しよう
とする作業が、ときに命すら奪われかねない実存
的な危機と葛藤(かっとう)を伴うものだというこ
とを、これだけあからさまに著者自身の言葉で体
験的に解きあかしてくれる本は少ない。
 封建制のしきたりがいまだに強く残る韓国の片
田舎で生まれ育った著者は、二十代の後半、自由
をもとめてニューヨークに旅立ち、八年間の舞踏
家としての鍛錬の末、はなばなしいデビューを飾
る。
 しかし、前衛舞踏家としての名声は彼女を真に
満足させるにはいたらず、人生の意味を解明すべ
く、すべてを捨てて彼女はインドへと旅立ってい
く。彼女の旅は単に「俗」を捨てて「聖」に向か
う巡礼の旅ではなく「聖」と「俗」との往復運動
である。そこに私は現代性を見る。
 とくにインドでのラジニーシやニサガダタ・マ
ハラジといった精神的な師を通して、東洋的な
「無我」の境地に「生きる」ことや「踊る」ことの
神髄を見いだした彼女が、ふたたび世俗に戻り、
結婚して子どもを産むくだりは、世俗にまぎれて
暮らしている読者には興味深いものがある。
 本書は韓国でベストセラーになったと伝えられ
ているが、それは急速な近代化を推し進めた韓国
人の魂の底で進行しているにちがいない、強烈な
自由への希求と、アイデンティティーの喪失から
生じる不安との葛藤のドラマを、著者のいわゆる
スピリチュアル・ジャーニーが象徴的に浮き彫り
にして見せているからにほかならない。そして、
このドラマは日本人の魂の中でもいまだに進行し
ている事態である。
 著者は現在、ソウル近郊の村に住んでいるが、
ビッグ・アイランド(ハワイ)の活火山の近くにも
自分を見つめるための拠点をもち、世界各地で踊
り続けている。(菅靖彦)

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