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2013年1月22日 (火)

友人の突然の死  田中淳一

会のみなさま、こんにちは。

今月の例会は、アーティストの意識状態の話で盛り上がったようですが、僕もぜひ、話し合いに参加したかったですね。

僕は今、前回のメールでも書いたように、バリに来ています。バリのウブドという、音楽や絵画など、芸術がさかんな村の田んぼのなかに家を借りています。夜になると、近くの寺院からガムラン(バリの鉄や青銅などを使った打楽器系のオーケストラ)の音が聞こえてきて、神秘的です。

今回、僕のバリでのある体験をシェアしたいと思い、メールしました。1月8日の午後のことです。4時半頃、バリのウブドに住んでいる友人宅に招かれ、遊びに行きました。

その友人には妻と子供が二人いて、世界中を家族で旅したのち、娘がバリ舞踊を習いたいということで、15年ほど前からバリに住み始めました。
彼は絵を描いたり、小説を書いて暮らしていました。僕らがバリにくると、いつも宗教や芸術などの話をしたりし、家族ぐるみで長年、つきあっていました。友人であり、敬愛する人生の先輩でした。
家に入る前に、「こんにちは」と挨拶をすると、いつも、くまちゃん(友人)がまっさきに出てきて、挨拶を返してくれるのですが、その日は、何も返事がありませんでした。彼の妻や子供たちが夕食の準備をしているあいだ、家のテラスで僕らは待っていました。
しばらくすると、3階に上がっていった妻のまさこさんが急に大声でみんなを呼びました。急いで階段を上がっていくと、くまちゃんが、倒れていました。すでに意識がないように思えました。
医者を待っているあいだ、まさこさんは無言でくまちゃんをマッサージしています。子供たちもパニックになっています。僕も「くまちゃん」と名前を呼んだりしながらも、パニック状態でした。
医者がやってくると、心臓マッサージしたり、身体をチェックした後、死の診断をくだしました。前日あったときは、くまちゃんは元気で、これからのバリでの予定も楽しく話していたので、あまりにも突然の死に、唖然となりました。
バリでは遺体は不浄だという考えがあるらしく、くまちゃんの遺体をウブドの村から運び出すのに、一苦労でした。
次の日、いろいろな書類を手配し、ヌサドアというところで火葬し、その次の日には、サヌールの海に遺骨を流しに行きました。彼の死の前後に不思議なこともいろいろとありました。あまりの展開の速さに、夢を見ているのではないかと思ったほどです。                         

バリ・ヒンズーでは人が死ぬとまず、共同墓地に埋めて、お金がたまると、葬式をして、すぐに火葬をするそうです。火葬をすると、その魂は不浄な遺体から離れて、祖霊になり、またすぐに生まれ変わってくると信じられています。
墓はありません。僕のバリ人の友人の子供たちも、村にシャーマンに、おじいちゃんとおばあちゃんの生まれ変わりだと言われた、と言っていました。
バリ人は死んでもすぐに生まれ変わると信じているためか、死に対しても、あまり悲壮感がないように思います。葬式は音楽とともに練り歩き、お祭りのようです。ここでは、生死の境はかなり、あいまいなように思えます。村の人々はつねに精霊や死者とともにいるような感じがします。           

僕の友人家族も墓はつくらないといっています。今回、火葬というのは、執着する対象がいっきに灰になってしまうのですから、ある意味、すごい浄化だと、と思いました。

今、僕は「諸行無常」を強く、実感しています。「死」の意味についても、深く考えさせれます。チベット仏教では死の直後、現世の執着を断ち切って解脱できるように「死のお経」を読みます。バリ・ヒンズーでは、魂が迷わずに天にいけるように、ガムランを奏でます。

これから僕らはタイに向かい、南正人さんという日本人のミュージシャンがチェンダオという町で主催する「シャンバラ祭り」に参加し、その後、プラユキさんのスカトー寺にいき、2月中旬に日本に戻ります。

空の会は「生老病死」を考える会として、始まったとお聞きました。僕が今回体験したようなことは、誰でもが生涯に一度か二度は経験するようなことで、何も特別なことではないかもしれません。誰もが死に向かっています。チベット仏教では「死」を理解することが、「生」を理解することだといいます。今度、例会に出席したときは、もしよろしければ、みなさんから「死生観」のようなものを聞いてみたいと思っています。よろしくお願いします。


またお会いできるのを楽しみにしています。

田中

2009年12月 6日 (日)

あやかりたい男性

2000009724 これまでたくさんの男性とめぐりあってきましたが、あやかりたいと思う男性はあまりいません。でも、先ごろ亡くなった俳優の森繁久弥はあやかりたい男性の一人です。彼が人と話すときの、あの独特の間の取り方。あれは完全に自分が確立していないとできない間の取り方です。本気なのかとぼけているのか分からない彼の話し方を聞いていると、自己を確立した人だけが持てる自由さを感じるのです。それは虚実の狭間にいて、いつでもあらゆる方向に踏み出せる自由さです。僕なんかつい話しの流れに引きずりこまれてしまい、しゃべっているようだけど、ただロジックに踊らされていることが多いんです。僕だけじゃなくて、ほとんどの人がそうであるような気がします。既製品の言葉を鸚鵡返ししているだけで、そのことにも気づいていない人が多い。スピリチュアリティやエコロジーにはまっている人たちも例外ではありません。自分の言葉をもちたいものです。

 僕が森繁にあやかりたいと思うもう一つの理由は、何をしても、何を言っても、女性に憎まれない点です。彼は若いとき、とにかくかたっぱしから女性を口説いていたと言われています。それをすべて笑い話にしてしまうしたたかさを、一体どうして培ったのでしょう。うらやましい限りです。人間のエロスは、当人の心の持ち方で、うしろめたいものにもなりうるし、笑えるものにもなりえます。でも、ただ開けっぴろげだけでも、エロスがもっている神秘的なあやうさは表現されません。インターネットにポルノが氾濫していますが、エロは感じさせても、エロスを感じさせるものはほとんどありません。森繁のエロスとの関係は、やはり彼の人間性が反映されているのでしょう。

 とにかく森繁久弥には楽しませてもらいました。ご冥福をお祈りします。

                               菅靖彦